凄い人気で驚い

・・・・・・・っということで、銭湯は好きじゃない。

小学校3年くらいまでは銭湯しかなかったから好きも嫌いもないが、大人になるにつれ好んで行こうとは思わなくなった。

その最大の理由が、マナーの悪さが目につくようになったから。

フィットネスクラブに入会していた頃は嫌い度がマックスに達した。

相手に注意して逆ギレされ、取っ組み合いの喧嘩寸前になることも何度かあった。

温泉も一部の外国人が入るようになって、行く気が起きない。

要するにマナーである。

公衆浴場はそれがモロに出るし、目立つのである。

おすすめの銭湯教えて!

最近流行っているスーパー銭湯

もはや銭湯ではなくレジャーランドの趣である。

旅の宿で2回ほど利用したことがあるが、凄い人気で驚いた。

寝そべってマンガを読みふける人々のなんと多いことか。

一日中館内で過ごして飽きないということ、そのものが驚きである。

ぼくには合わない。

カラスの行水であることもそうだが、リラックスできないのである。

良さは分かっているつもりである。

好きな理由も理解できるのにね。

全くかけ離れた

「セレブ」は英語の"celebrity" のこと。短縮形が"celeb"。
この言葉が一般化したのは、わずかに1990年以降だという。
もちろん、意味としては大衆にひろく注目されている人、話題の人などと定義される。
著名な芸能人、プロスポーツ選手、大富豪などもその範疇に入る。
一般庶民や大衆といったものとは珍珍薯片、全くかけ離れた羨望の存在といったところだろうか。
だけども、よく「セレブの生活」などとしてテレビ番組を賑わしているのは、
本物のセレブというより「B級セレブ」と考えた方がいいという人もいる。
我々が一般的に知っているセレブというのは、およそ、この「B級セレブ」あたり?

一方、「スノッブ」と呼ばれるものの定義でいえば、上記の人たちの中でも
自身の富や知識などをひけらかしたり鼻にかけたりする人たちのことを言う。
いわゆる「タカピー」。
もちろん、知識より「裕福さ」がなければ、この「スノッブ」の範疇ではない。

20世紀の初頭に書かれたプルーストの『失われた時を求めて
の小説のモデルとなったのはパリの社交界浴室用品
今現在、パリでいちばん富裕層が住む地域としては16区。
パリの中心地から西に向かった、やや郊外の閑静な住宅地域。
この小説のモデルとなった地域は、おもに、今でいう8区あたり。
その辺りは、当時、今の16区のようにパリでも郊外だった。
瀟洒な新興地域に貴族やブルジョワなどの富裕層が好んで住むようになった頃のこと。
この小説で、パリのモデルとなっている地域は意外に狭い。
まずはセーヌ右岸。東は今でも豪華ホテルとして知られる「リッツ」あたりまで。
西は、モンソー公園や日本大使館があるあたりまでの数キロ圏のこと。
描かれているのは、そこにうごめく、各界のセレブたち。
その中には、これぞ「セレブ」と目される人もいれば、いかにも「スノッブ」もいる葵涌通渠
そういったところを描いたところが、この小説の妙味でもある。

プルーストが「スノッブ」について書いている言葉に、
スノッブは、対象に近づくだけで満足しない。それを手に入れたことを
他人に知られたい。他人の眼に映る自分の姿こそ陶酔の対象」とある。

そう言えば、この言葉で思い起こすのは、少し前のこと、
ネットビジネスで成功した男性と有名女性タレントが、
『プライベートジェットでロシアW杯サッカー観戦』という話題があった。
黙っておいても良さそうなものだが、男性、女性、両者ともに
それぞれの SNS に投稿していた。
これは、
スノッブは、対象に近づくだけで満足しない。それを手に入れたことを
他人に知られたい」
その典型の行動形態であるように思えるのだが..

仕事からも発注

昨日は来月に出す「項羽と劉邦シリーズ」の作品を書き始める日でした。

そして別にとっているライターの仕事からも発注を受けた直後でした。

どっちも慣れている仕事ではある。しかし、未だにプレッシャーを感じずにいられない。仕事を目の前にした時に、どうしても「ちゃんとやれるかな」なんて不安になります。

元から何事も計画的にコツコツやるタイプ。もっというと、仕事ややらなければならないことを後回しにするのが大っ嫌い。後に「やらなければならないこと」があると集中して他のことができないタイプ。

だからこうして仕事の発注を受けたり、自分で決めたものではあっても〆切がある原稿があると、初日から数日間が一番忙しくなります。

スタートダッシュを決めて仕事に取り組む。やれることはとにかくやる。目の前の仕事をガンガン片付けていく。

そして〆切前には逆に暇になっている。

夏休みの宿題なんか、当然8月中旬には終わらせていました。終わらせずにいられない。(ついでに残りの20日くらいでワークは2周3周してました)

私はそういう人です。

一方夫はというと、

「夏休みの宿題?そんなものは夏休み最後の3日間が勝負だ!」

とドヤ顔して言ってくるタイプ。

昨日も私が「仕事の発注を受けた直後が一番忙しくて、〆切前は逆に暇になるんだよね」と話したら、「その気持ち俺には全く理解できない」と言われてしまいました。

夫曰く「仕事の発注を受けた直後は多少やる気になってやるかもしれないけど、途中でだらけて〆切直前にラストスパートをかける」らしい。

夫婦間で〆切に対する考え方が全く違います。

医師にとっては

 前回は、医者にまちがった薬を出されて、取り替えにいったら、料金を請求されて、頭に血がのぼったところまで書いた。

 しかしここで30分ほど待たされたおかげで、沸騰しかけていたわしの頭は、少し冷静になった。その頭で診察室へ入った。
 医者は黙ってわしの訴えを聞いていたが、話し終えると、やおら口を開いてこんなことを言った
「待合室に張り紙が出してあるのを、ご覧になりませんでしたか? 当院の診療を受けておられる方が、外から電話をかけてこられて、わたしが出てお話をしたら尖沙咀 Facial、再診療費をお受けすることになっております。これはどなたにもお願いしている当院の決まりです。これは医事関連法でも認められている、公認の診療報酬です」
 わしのカンシャク玉の皮が、なんとか耐えられたのはここまでだった。ついに爆発した。
「患者を愚弄にするのもいい加減にしろッ!」
 医者は、草むらから突然飛び出してきたヘビに驚いたチワワのような顔になった。そして数秒 間をおいてから言った。
「はばかりながらわたしは、患者さまをグローするようなことは、いままで一度だってしたことはありません。わたしがお願いしているのは、医事関連法でも認められている当然の・・・」
 わしは医者の言葉を途中でさえぎり、先ほどたっぷり待たされている間に考えておいた異議申し立てをいっきに口にした。
「そんなおかしな話が、他のどこで通用しますか。いいですか・・・例えばですよ、家電量販店でなにか電気製品を買ったとします。家に帰って梱包を開けたら、店頭で選んだものと品物が違っていた。そこで店に電話をしたら、持ってきたら取り替えると言われた。そうした場合、その家電量販店は、客に電話応答料を請求しますか!」
 医者は、困惑と苦笑を混ぜ合わせた狆(チン)のような顔になって答えた。
「医療の現場を、家電量販店と一緒にしてもらっては困るなァ」
「なにを言ってるんです。結局は同じじゃないですか。医療現場だって、医療サービスを行って面霜推薦、その代価として報酬を受け取っているわけでしょ。扱うものが家電製品か医療サービスかという違いだけで、根本は同じです」
「いや違います!」チン顔が、こんどは憤然としたチャウチャウ犬顔になった。「わたしたち医師は、金銭だけのために仕事をしているのではありません!」
「そうなんだ、そこなんだ!」わしはここぞと声に力を入れたよ。「まさにそこなんですよ、先生、私が言いたいのは・・・。人の命にかかわる仕事をしている、という美しげな看板の陰で、実際はこういうケチなことをあんたたちは平然とやっているんだ! わたしが患者をバカにしているというのは、そういうことを言ってるんです!」
 こうなったらもうわしの口は止まらない。腹の中にあることを一気にまくしたてた。このケースのように、たとえ小さな事柄であっても、医療従事者らしい目を配ることをせず、「外から掛けてきた電話に医師が出たら・・・」「公認の医療報酬で違法ではないから・・・」などといった建て前のもとに、弱い立場の患者に問答無用に費用を請求するというような状況・・・それこそまさに「金儲け主義医療」そのものではないか。さらに、そうした品のない小さな行為の積み重ねが、いま日本で大きな社会問題となっている「医療不信」、あるいは「医師不信」を生み出しているのではないか・・・。
 わしのケンマクに多少ビビッたのでしょう、まもなく医師は折れて深層滋潤霜、「今回は特別の例外措置」として、電話による再診料は支払わなくてよい、ということになったのだった。
 わしは家へ帰り道、勝利を手にした凱旋将軍の気分・・・ではなかった。じつはなんとなくサエない気分だった。ふと相手の医者の身になって考えてみたからだ。今ごろあの医者は、さぞかし不愉快な思いをしているだろうな、と。
(今日はツイテないナ、嫌な患者にぶつかってしまって・・・。ああいう連中が一番困るんだ、ああいう中途ハンパな知識を持っているヤカラが・・・。今は医院経営も大変で、こうした小さなことからも細かく金を取るようにしないと、なかなかやっていけないことなんて、あいつらには分かっちゃいなんだ。建て前を振りまわしているのは、あいつらのほうなんだ・・・)

 確かに、中途ハンパな知識と皮の破れやすいカンシャク玉をあわせ持っているわしのような患者は、医師にとってはうれしくない客だろう。

 でも、わしはふだんから思ってるんだ。医師に対して日本人は少しおとなし過ぎる・・・と。べつだんカンシャク玉をむやみに破裂させる必要はないけれど、患者として主張すべきはきちんと主張しなければならない、と考えているわけだ。演劇界でよく言われるらしいが、「舞台を良くするのもダメにするのも観客しだい」という言葉は、どの世界にも当てはまると思う。

 ・・・と、そんなことを思う頭の隅のほうで、別の声もしていたよ。近所の医者とこう軒並みケンカしてたんじゃ、イザというときに困るんじゃないの・・・って。

 

経験的な言葉

脳を損傷した人の治療に役立つものに「経験的な言葉」がある。

 

手の不自由な患者に手を上げるように言う。すると、

「力が入らない」という主観や、「動かない」という客観の答えが返る。

“ではどんな感じか”と尋ねると「鎧を着ているみたい」。

これが主観と客観の間にある「経験的な言葉」。

そこで「軽い鎧を着ているように動けますか」と呼び掛けると、

手が動きだす兆しを見せるそうだ。

 

現実に起きていることを「経験的な言葉」で表現すると、

脳内の仮想現実に合った動作が準備されるという。

作業療法士の菅原洋平氏は、スポーツでも好調なチームほど

“力まずいこう”などと声を掛け合うのは、こうした行動を促す言葉の力を知っているからと指摘する。

(『すぐやる!「行動力」を高める“科学的な”方法』文響社

 

入会前、大病を患っていた群馬の男子部員。

目の前に大きな山が立ちふさがった思いだった。

そこに学会員の友人が「山があるなら一緒に登ろう!」と。

入会した彼は唱題根本に治療に努めた。

“頂上は見えたぞ”“もう一息!”との励ましを受け、

体調は好転し、病を克服。家族への弘教も実らせた。

 

友を励まし、動かす「言葉」は、

寄り添う真剣さの中で紡ぎ出されるものだろう。

それが蘇生への大いなる希望となる。

断末魔の叫びな

行きつけの食品スーパー店内に入ると私の耳はエスパーのように鋭く研ぎ澄まされ収音機と化す。

 

「ギギギ……。グハ」


「ほぉ、聞こえる聞こえる保健枕。食品群の悶える声。よくキコエルゾ…。」


ネギか?春菊か?それともブナシメジか?

冬場は何らかの理由で、あぶれた鍋具材の野菜が多く目立つ。

「カツカツカツ…。」


余計な通路は一切通らない事にしている。

理由は?

無用な場所を通らない、道草をしないのは私も人間だから一丁前に生きのいい新鮮な食品に目が眩む。

今日の持ち金はといえばどんなに数え直しても半人前以補濕面霜下の350円なのだからそうそう買える物はない。「高値の花。」に全くもって御用はないわけだ。

無駄な立ち寄りは自分を惨めにする事を知っている。

突飛な話を一つしよう。

食品のかすかな叫び声は断末魔の叫びにも似ている。

実際の所、断末魔の叫びなんて聞いたことはない去皺紋。想像上の例えだ。

命は限りがあるからドラマになる。

食品それぞれは生命体だ。

傷み、廃棄寸前の食品群がもだえ苦しみ叫んでいてもおかしくない、そうだろう?

私流。人間勝手なドラマがここにあったっていい。いや存在するのだからどうしようもない。

私の食材調達。食品とのやり取り。

さぁ、続きをお付き合いいただこう。

「カツカツ、ゲゲゲ。カツゲゲゲ。」

続く。

皆様のおかげで現在、子カテゴリー6部門で1位獲得中です!

引き続き下の三か所をビブラートタッチお願いします。

荒川線はよく利用

・・・・・・・っということで、荒川線はよく利用していました。

 

ホントーに出発時にチンチンと鳴らすんですね。

 

世田谷線は殆ど利用しませんが、撤去される気配はありませんね。(^_^ゞ

 

何故かバスより生活に密着している印象ですね。

 

全席がシルバーシートのような感じで、ジジババは席を空けてくれるのが当然という態度で乗り込んできます。(^ω^)

 

チンチン電車に乗ったことある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

あなたもスタンプをGETしよう

チンチン電車は今後もしぶとく残っていきそうですが、懐かしいのがトロリーバス

 

昔々、母親に手を引かれて乗った記憶がうっすらとあります。

ご存じのように、ヨーロッパの都市はトラムといって電車がよく走っています。

観光気分を盛り上げてくれます。

排ガス問題や観光を考えると、チンチン電車は見直されてもいいかもね。