顔は色を変えた

「周くんはひどいわ。そうでしょう?」
 美以子はまた顔をしかめさせた。まるで誰かが用意した台詞をそのまま口にしてるみたい――そう思っていた。しかし、思考は空回りをはじめた。感情だけが溢れてきた。
「どうして?」
「だって、いつだって私たちをおいていってしまうじゃない。で、自分だけ楽しんでるの。今日もそうよ。私たちをおいてどこかに行っちゃったわ」
「そうじゃないよ。周は俺たちをおいていったんじゃない」
 強士は不思議な気分になっていた。子供の頃の美以子と話してるように思えたのだ激光脫毛。自分と知りあった頃の――いや、それよりも子供なのかもしれない。美以子は痛いくらいにしっかりと手をつかんでいた。
「それも嘘。周くんはどこかに行っちゃったじゃない。ね、強士くん、前に言ってたでしょ。周くんは私のことが好きなんだって。あれも嘘だったのね。ひどいわ」
「いや、周は美以子のことが好きだった」
「嘘よ。じゃあ、なんで周くんはいなくなっちゃったの? 私は周くんのことが好きだったのに」
「美以子」
 目をつむって強士はそう言った。身体は重たくなっていた。鉛を詰めこまれたような気分だった。手がゆるんだ。強士は目をあけた。美以子はなにかを探してるみたいに首を左右に動かしていた。

「どうした?」
「しっ」
 鼻先に立てた指をあて、美以子は首を動かしつづけた。
「聞こえない? 『ギチギチギチ』って音。なにかを潰してるみたいな、そうでなかったら重たいものを無理に引きずってるような音。ほら、今もした。強士くんにも聞こえるでしょ?」
 強士は耳を澄ましてみた。しかし、周囲からの話し声しかしていなかった激光暗瘡印
「ね、聞こえないの?」
「ああ、聞こえない」
「嘘よ。こんなにはっきり聞こえるじゃない。『ギチギチギチ』って」
 美以子は強士の方を向いた。色を無くした瞳がふたつあった。頬はすこしばかりゆるみ、笑顔をつくろうとしているのがわかった。
「そう、これも中学のときだけど、私が河原に連れ出されて、あなたと周くんが探しに来てくれたことあったじゃない。あのときにも聞こえたわ。枯れた草の奥から『ギチギチギチ』って。私、なにがこんな音をさせてるのか見てやろうと思ったの。だけど、ちょうどそのとき声が聞こえてきたの。私を探しに来てくれたあなたたちの声よ。だから、私はそこから離れた。たぶん、あなたたちを守ろうって思ったのね。それに近づけさせちゃいけないって思ったのよ。間違った方へ導こうとするその者からあなたたちを遠ざけたかったの」
「間違った方?」
「そう、間違った方」
 美以子の手は強さを増した。強士は細く息を吐いた。

「だけど、周くんは守れなかったのかも。実穂なんかと結婚しちゃったんだもの。ね、ひどいでしょ。周くんは私のこと好きだったはずなのに、実穂なんかと結婚して。許せないわ。強士くん、あなたもよ。あなたも私の知らない人と同棲してるんだもの。私はあなたたちを守ろうって思ってたのに」
「美以子」
 強士は手を握りしめ囁いた。
「なあに?」
「もう帰った方がいい。疲れてるんだよ。それにすこし酔ってるのかもしれない。そうだろ? な、帰ろう。送ってくから」
「嫌よ」
 美以子は背中を椅子にあてた。顎を反らし、強士を見つめた。
「そう言って私をひとりぼっちにさせようってんでしょ。わかってる。いつだってそうだった。みんな嘘ついて私をひとりにしようとするの。ね、強士くん、もっとちゃんと手を握って。私をひとりにしないで。私は大丈夫だから。疲れてなんかないし、酔ってもない」
「ひとりになんてしないよ。だから、帰ろう日本物業。ちゃんと家まで送るから」
「嘘よ」
 美以子は強士を見つめてそう言った。自分ではそれまで通りに言ったつもりだった。しかし、強士は驚いたような顔をしていた。彼だけではなかった。隣の席にいた者も美以子を見つめていた。ホール係の男は怪訝そうな顔で近づいてきた。

「なんでもないよ。大丈夫だ」
 強士は顔をあげてそう言った。
「彼女は疲れてるんだ。それにすこし酔ってる。だけど、大丈夫だ」
 それを聞いているうちに美以子の顔は色を変えた。感情は押しとどめられなかった。今度は自分でも大きな声を出しているのがわかった。
「私は疲れてない。酔ってもないわ。なんでそんな嘘をつくの?」
「美以子」
 鋭い声を出して強士は美以子を見た。それから、店員にもう一度「なんでもないんだ。大丈夫だから」と言った。
 ホール係はさっと美以子を見て軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。美以子にはそれが気にいらなかった。いや、なにが気にいらないのか自分でもよくわからなくなっていた。ただ、あらわれた感情は怒りであり、それを感じたときに彼女は叫んでいた。
「嘘つき! みんなして私に嘘をついてる!」
 隣の席にいた二人は腰を浮かして、美以子と強士を見ていた。ホール係は振り向いた。奥からも三、四人やって来てテーブルを囲んだ。
「大丈夫ですか?」
 美以子はそう言った男を睨みつけた。すっと立ちあがり、叫んだ。
「大丈夫よ! 私は大丈夫! なんでみんなしてそう訊くの? 私は大丈夫なのに!」
「美以子!」
 強士は手を伸ばしかけた。美以子は脚をひらき、両手をだらりと下げていた。瞳の色は完全に失われていた。まるで放心したかのようだった。しかし、突然グラスを取ると、それをテーブルの角にぶつけた。ガラスの砕ける音が響き、ぬるい液体は彼女の脚にもかかった。
 え? と美以子は思った。濡れたことでなにをしたかがわかった。しかし、すぐに知覚は鈍くなった。彼女は崩れるように座り、口を半分あけたまま前だけを見ていた。強士のいるのがわかった。でも、それくらいしかわからなかった。強士は店員になにか言っていた。美以子はふたたびテーブルに腕を投げだした。足許ではガラスを片づけるような音がしていた。彼女は指先をかすかに動かし、強士の手を探していた。
「強士くん?」
 美以子は囁くような声を出した。
「強士くん、私の手を握って」