思い至らなかった

佐和子はずれ落ちた眼鏡をなおして強士の顔をじっと見た。しかし、すぐにコロナビールの瓶を握り、カウンターの内側を覗きこんだ。真顔の強士に見つめられると落ち着かなくなった。この人は普段見せないでいることを無遠慮に引っぱり出し、並べたててしまうんじゃないか――と思った。どうしてそんなふうに思ったのかはわからない。だけど、そういう目つきをこの人はしてる。

彼女の方はずいぶん前から強士のことが気になっていた。仏頂面をしてずっと本を読んでいるか Medilase 學生優惠、ノートになにか書きつけている男。よく見れば悪い顔ではない。痩せた頬は削ぎ落とされたようになっているけれど目は大きく、それを細めてさえいなければまあまあいい顔立ちに思える。ただ、明らかに他者を拒絶しているような雰囲気を持っているし、実際いつもひとりぼっちだ。たまに目があうと、その一瞬のうちに私の中からなにかを引っぱり出そうとする。馬鹿げた妄想にも思えるけど、しかし、確かにそういうことが起こっているのだ。今だってそう――と彼女は思った。こうして話してみても印象はかわらない。だから、強士がカウンターの方を向くと深いところから息が出てきた。
「あなた、いつもなに書いてるの? ほら、ノートになにか書いてるでしょ?」
頬杖をついて強士は目を落とした。彼は何十冊ものノートに言葉を書き連ねていた。自分のことや、美以子のこと、それに周のこと。しかし、どれだけ書いても自分たちの物語にはならなかった。誰か知らない者たちの話にすり替わっていった。
「小説でも書いてるのかと思ってたわ」
「違うよ。そんなんじゃない」
「じゃあ、ラブレター?」
佐和子は笑いながらそう言った。強士は黙っていたけれど、表情はやわらいだ。その二つともあたってる――と思っていた。

「ノートに書かれたラブレターってのも悪いもんじゃないわ。ま、たいていの子は嫌がるでしょうけど、私はもらったらうれしいわよ」
「ほんとかよ」
「もちろん内容にもよるけど」
新しい煙草に火をつけ、佐和子はけむりを手で払った。
「でもMedilase價錢、まさかほんとにラブレターなの?」
強士はすこしだけ真顔になった。しかし、すぐに口許をゆるめた。この子になら言ってもいいか――と思ったのだ。なぜそう思ったのかはわからなかった。酔っ払っているからかもしれないし、彼女の雰囲気がそうさせたのかもしれない。あるいは、誰にも読まれることのない文章を書きつづけていたことに変化が訪れたのかもしれなかった。ストーリーは他者と共有できるものでなくてはならない。自分だけ理解出来るものなんて意味がない。強士はそう思いはじめていた。そう思い至らなかったから、きちんと書くことができなかったんだとも思った。

「ラブレターじゃないよ」
強士は前を見たまま話しだした。
「似たようなものかもしれないけど、今はまったく別のものになってる。筋のある話にね。でも、うまく書けないんだ。ほんとうに書きたいものってのはなかなか書くことができない」
「ふうん。じゃ、まずは別のものを書いてみたら? ほんとうに書きたいものがうまくできないってのは、訓練ができてないからなんじゃない? 幾つか別のものを書き終えることができたら、ほんとうに書きたいものに手をつけられるかもしれないでしょ? それに、もしかしたら書き終えた中に書きたかったものが含まれてたってこともあるかもしれないわ」
彼女の声を聴いているうちに強士は不思議な気分になっていた。考えたいことを導きだされているように思えたのだ。人の声であるのにそれは自分のもののように思えた。

「そう思うか?」
「そう思うわ。私は読むだけでなにか書こうなんて思わないけど、どんなことだってそうなんじゃない? ほら、言うじゃない。習うより慣れろ、考えるな感じろってね」
佐和子はそう言って、ひとりで面白そうに笑った。それから手を挙げ店員を呼ぶとコロナビールを追加した。