選ぶときの基準

人間は化粧する動物である。

人間以外の動物・・・とりわけ鳥類の中には、さまざまな色と形を駆使して、”飾りまくっている” と言いたくなるほど外観が派手なものもいる。
しかしそれは、あらかじめ遺伝子に組みこまれているものである。生まれた後で手を加えたものではない。つまり化粧ではない。

そこへいくと人間は、生まれたままの姿は実にジミだ。ジミすぎてミジメになるほど。色は肌色と毛髪色の2色しかない。目玊には人種によっていくつかの色があるが、小さくて少し離れたら目につかない。飾りにならない。
ほかには角(ツノ)もなければ牙もないし、トサカも尻尾も羽もない。あるのは大小の棒のような四肢と、箱みたいにズドンとした胴体だけだ。飾りにするには不十分である。

だからだろう、人間は生れた後で、知恵のかぎりを尽くして身を飾る。そのための労を惜しまない。
アフリカや南米アマゾンや南洋諸島など、文明の影響がいまなお比較的少ない(→原始社会に近い)部族のひとたちは、自身の身体にじかにペイントしたり、さまざまな道具立てで飾り立てる。そういう秘境部族の映像を、今でもときどきテレビのドキュメントで見ることがある。

女流写真家「ヨシダ ナギ」さんの写真集を初めて見たときには仰天した。仰天したあとで感動した。人の身体にほどこしたデザインの美しさや芸術性はもちろんだが、そこまで己の身体を飾り立てようとする人間の情熱に、なにかしらわけもなく感動したのである。(→ヨシダ ナギ氏の写真はこちらから)

一方、われわれ文明人といわれる人間たちは、おのれの身体そのものをいじることは余りしない(せいぜい皮ふへの刺青や頭髪を変えるくらいだ)。そのかわり、身体をおおう衣服をさまざまにデザインして身を飾る。それに注ぐエネルギーも半端ではない。

話の向きを少し変える。
人間以外の動物で、飾り立てが濃厚なのは多くオスのほうである。つまりオスのほうが見かけが派手だ。一方、メスのほうは概してジミである。

オスがメスより派手なのは、よく知られているように、種(自己の遺伝子)の保存のために行う繁殖行為において、配偶者えらびの選択権を持つのがメスであるからだ。早い話、メスに選んでもらえなければ、オスは自分の子孫(遺伝子)を残すことができない。それは生きものとして敗者を意味する。
だからオスは、メスに選んでもらえるよう、必死に飾り立てる。孔雀のオスがその典型だ。

ところが人間の場合、飾り立てに努力をするのはどちらかというちメス・・・失礼、女性のほうである。
なぜ人間は他の動物とは逆なのだろう。

人間の女性が配偶者(生殖の相手)を選ぶときの基準は、わしが考えるところ、大きくいって二点あると思う。
一点はできるだけ「優秀であること」。もう一つは「見た目がいいこと」。

どういう人間を優秀とするかは人によるだろうが、基本的には「頭がいいこと」と「性格がいいこと」ではないか。
要するに、生まれた子供を一人前に育てて次世代へつなげるには、人間社会では頭の良さと性格の良さ(やさしい/人から愛される)が有利であるということだ。

配偶者えらびのもう一つの基準である「見た目がいい」は、繁殖のアドバンテージ(自分の子孫を残すうえでの有利性)とは、生物学的には直接関連性はないように思える。
にもかかわらず “見た目” が選択基準になるのは、進化の樹(系統樹)をみればひと目で分かるように、人間も遡れば他の動物と同じ枝から出ており、その頃の遺伝情報が、いまなお人類のDNAの一部に残っているのかもしれない・・・などと想像してみたくなる。

しかしそれならなおのこと、なぜ人間の場合、飾るのが主として女であって男ではないのか、という疑問は残る。
人間も、配偶者えらびの最終的な選択権をもっているのは女である。であれば、他の動物のように、自己を飾り立てるのは男でなければならない。ところが逆なのはなぜなのか?

わしのボケ頭が考えるのは次のようなことである。
おそらく、原始時代を脱してからの人間社会が、より複雑になったからだと思う。
他の動物の社会とちがって、人間社会を勝者として生き抜くには、体の大きさや見た目の良さよりもよりも重要な要素がほかにあるのだ。
早い話、孔雀や極楽鳥の社会では、ジャガイモみたいな顔の男が14億のトップに立つ・・・といった例は見られないだろう。

一方女性のほうも、最終選択権は自分にあるとはいえ、プロポーズしてくれる男がいなければ選びようがない。そして選択肢は多いほどよい。より優秀な配偶者を手にいれるチャンスが増える。
そのためには、できるだけ多くの男の目を自分へ惹きつける必要がある。
そのために重要なのは、やはり「人柄(性格/人間性)」と「見た目」であろう。
人柄はもちろん重要だが、天から与えられる部分もあり、望むようなものに変えるのはそう簡単ではない。
それに比べれば、見た目を変えるのは比較的容易だ。時間もかからないし、効果も大きい。

・・・というわけで、男は繁殖機会を増やす上に有利な優秀さ(能力やスキル)を磨くことに比重をかけ、女は、優秀な男をえらぶ選択肢をふやすために見た目を磨く。

しかし人間社会はいま、原始期を脱して以来の大きな変容をはじめているように見える。
これまで行われてきた男女役割分担の枠組みがくずれはじめている。
そうなると当然、自己遺伝子を残すため生殖の有りようも変わってくる。
昨今増えつつある男性の化粧や女性化も、その具体的な一例かもしれない。
いや、進化生物学的には身を飾るのは本来オスなのだから、らせん状に一周してあるべき姿にもどってきたのかもしれない。

それにしても80歳の老人には、いまさら何かを変えるのはむずかしい。
進化についてゆけず取り残されるのは避けられない。
「あの爺さん、前の時代の化石・・・」
みたいに言われるんだろうなァ。

・・・なんてことを、今日はヒマにまかせてぼんやり考えてみた。
そりゃまあ腐るほどヒマがなけりゃ、こんなクソ役にも立たんことは考えんわナ。