恋するゆえに

祇王寺のすぐそばに、滝口寺はある。
寺とはいえ、小倉山の山かげに隠れるような小さな山荘だ。開け放たれた二間つづきの座敷にあるのは、2体の小さな木像だけ。滝口入道こと斉藤時頼と横笛の像である。
現世において、ふたりがこのように肩を並べることはなかった。恋するゆえに、時頼は横笛を避支付寶hk充值けつづけなけなければならなかったのだ。

斎藤時頼は、平重盛に仕える武士で、清涼殿の滝口(東北の詰所)の警護に当たっていた。
「十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕(ぞうし)横笛といふをんなあり。滝口これを最愛す」(『平家物語』巻第十)。
時頼はん、せっせとラブレターを書きはったそうどすな。
刀しか手にしたことがない無骨な武士の文。それでも一途な思いは届いたとみえて、横笛の胸にも恋の炎が燃えうつる。

これを伝え聞いた時頼の父は、
「世にあらん者のむこ子になして、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめて」、平家一門に入る身でありながら、なんの地位もない女など思いそめて、と激怒。
若い時頼はん、えろう悩みましたやろな。
恋を貫徹しようとすれば、父や主君の意に背くことになる。
「これ善知識なり」と時頼が選んだ道は、恋も名誉もすてて仏道に入ることだった。
時頼19歳。煩悩を払うため、嵯峨の往生院(滝口寺のあたり)に入り q10 推薦仏道修行の身となる。時頼にとっても思わぬ転身だったのではないか。

武士の恋とはままならないものなのか。桜の歌人西行のことが思い浮かぶ
鳥羽院の北面の武士だった西行こと佐藤義清も、23歳で武門を捨て仏門に入った。その動機は、待賢門院璋子への恋着のゆえであったともいわれている。
だが、西行には歌があった。歌の中で、ひたすら桜花に恋情を追い求めることができた。

   花に染む心のいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我身に(西行

花に染む心、いかにも西行はん。そやのに時頼はんまで、そんなん。ああ、なんと、いけずなお方どすえ。
思う人が出家したという噂を耳にして、納得できないのは横笛。
「たづねて恨みむ」と「嵯峨の方へぞあくがれゆく」。だが、「ここに休らひ、かしこに佇み豐胸療程、尋ねかぬるぞ無残なり」。
ほんま痛ましいかぎりやわ。
そこに、住み荒らした、とある僧坊から念仏誦経の声がしてきた。
ああ、あれは恋しいお方の声に間違いおへん、と横笛。
表戸を叩き、「都から探して参りました。お姿を見せておくれやす」と供の女に乞わせたが。

時頼は胸騒ぎがして、襖の陰からそっと覗いてみると、横笛の姿。
さんざん探し回って疲れ果てたその様子に、時頼の気持も砕けそうになる。だが、すぐに人を出して、「是にさる人なし。門(かど)たがへであるらむ」と帰してしまう。
「横笛情けなう恨めしけれども、力なう涙をおさへて帰りけり」。
だが、真の自分の気持を伝えたかった横笛は、僧坊の近くの石に歌を残す。

   山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道に我れを導け

自分の指を切り、その血で書いたものだという。

時頼にも、まだ未練は残っていた。
自分の住まいを知られた以上、いちどは心強く拒んでも、再び訪ねて来られたら、その時も断りきれるかどうか分からなかった。
彼はなお残る思いを断ち切るため、女人禁制の高野山の僧院に入ってしまう。
その後の横笛は、「その思ひの積りにや、奈良の法華寺にありけるが、いくほどもなくて、遂に儚くなりにけり」。
尼さんになって、まものう死んでしまいはった、て。哀れどすなあ。